老子道徳経-第7章-「無私」は最高の個性

老子道徳経

第7章

 

地は悠久に存在しつづける

天地がこうして

ゆったりと久しく存在できるのは

ただそこにあって

自分こそが、と

生きながらえようとしないから

だから

長く永く存在しつづける

 

タオの人は

人びとの一番うしろに身を置くけど

自然と推されて

氣づくと一番前に出ている

社会の外にいようとするけれど

自然と社会に必要とされる

無私だからこそ

そうなるんじゃないか

 

タオとひとつになり

無私に生きるからこそ

その唯一無二の個性を発揮することができる

神遊りら 訳

 

 

わたしは、わたしが、わたしを、わたしこそが、、、

「私」にこだわるのをやめていくと

周囲の人たちの対応が変わっていくのを

感じつづけている

 

自分の話ばっかりするのをやめて

相手の言葉に耳を傾けるようになると

みんな、あなたの話を聞きたがるようになる

 

みんな、とってもやわらかになって

大切にやさしく、あつかってくれるようになる

 

そしてなにより

自分自身が楽になって

なんにもなくても

自然と笑みが浮かぶようになる

 

わたしたちは

自分をかまいすぎているのかもしれない

「かわいそうな私」を慰めようとして

「私」を強調しつづける

「わたしを見て…!」ってね

 

でもね

それは

自分を思いやったり愛することとは違う

自己憐憫は、自分を愛することとは反対にある

 

「わたしは」

という主語を

「わたしたち」に

というふうに変えてみると

すごく楽になるよ

 

目の前にいる人は

わたしであり、

わたしたちだ

 

譲れない、と固くにぎりしめたものを

ふっと、与えてみたらどうだろう

お先にどうぞ、と道をゆずってみたらどうだろう?

 

そうすると

とても楽な自分になる

閉じ込められた

ちいさな「私」の世界から自由になる

 

みんなが楽しそうに進んでいくのを

後ろからみているのは

とても愉しいことだと思う

先頭きって

「みんな、ついてこい!」って歩いていたら

みんなの様子はわからないから

 

すこしはなれて

みんなを観ていると

いろんなことが見えてくる

そうすると

いつしかみんなの真ん中に招かれて

大事にされたりする

 

日本語は

主語が必要ないようにできてる

ことさらな主張をしない

 

ことさらに主張する「わたし」

それがだんだん薄くなっていくとね

 

タオのエネルギーが

カラダにも心にもどんどん沁みてくる

 

呼吸をするたびに

言葉を交わすたびに

エネルギーが充満してくる

 

そのやわらかなエネルギーは外へと沁みだして

私たちの世界を満たしていく

 

何か事を起こそうとしなくても

自力でがんばらなくても

 

「もともとそうだった状態」になれば

わたしたちのたましいは

ひとりでに創造をはじめるんだよ

 

 

神遊りら

 

天は長く地は久し

天地の能く長く

且つ久しき所以の者は

其の自ら生ぜざるを以て

故に能く長生す

是を以て聖人は

其の身を後にして

而も身は先んじ

其の身を外にして

而も身は存ず

其の無私なるを以てに非ずや

故に能く其の私を成す

(老子 金谷治著 講談社 書き下し文より引用

 

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